【8000年の歴史が眠る神秘の島】 マンガで分かる! 超ざっくり振り返る「無人島・猿島」の歴史

史跡さんぽやBBQ、釣り、そして夏は海水浴でもにぎわう無人島・猿島。
しかし、〝そもそも「猿島」って、何? いつからあるの? 人いたの? 猿いるの?〟というギモンをよく伺います。
そこでさまざまな史料をひも解いてみると・・・なんとこの島には少なくとも8000年の歴史がっ!

今回は、その長~い歴史を超ざっくりと振り返ってみたいと思います。

小学生のみんな、駆け込み自由研究にピッタリのテーマかもよっ!

結局のところ、猿島の猿はいるの?いないの?

■ 縄文人も夏のレジャーに訪れていた!?

猿島の山頂にある展望台

戦時中は「防空監視所」、そして戦後は〝(仮面ライダーの)ショッカーの基地〟として知られるこのエリアですが、何と約8000年前に使われたと思われる縄文式土器のカケラと石器が発見されています。
また、続く弥生時代(約1800年前)の地層からは、弥生式土器のカケラや動物の骨、石包丁そして焚火の痕跡が!

この頃から一貫して、島に人が住んでいた様子はありません。しかし、漁などで一時的に島に滞在した人がいたと思われます。
ひょっとしたら、縄文人は夏のレジャーで猿島ピクニックをしていたのかも!

現在は立ち入り禁止で謎な建造物と化している展望台

■ 白猿&大蛇が登場!~〝猿島・日蓮伝説〟の誕生~

話はいきなり飛んで鎌倉時代。
1253(建長5)年、日蓮宗の宗祖・日蓮(にちれん)による〝決死の航海〟がついに敢行されます。

話はやや長いので、ざっくりと4コママンガにするとこんな感じ!

このことから、かつて「豊島」(としま)と呼ばれていた島が〝猿島〟と呼ばれるようになったと考えられています。

 

■30秒でざっくり分かる!猿島大蛇伝説!

しかしっ!
猿島をめぐる謎の生物は猿だけではありません。
文献によると、なななんと、大蛇が存在したとか!

こちらも4コママンガで見てみましょ。

その後、明治17年に対岸の横須賀市三春町に移転し、現存

この洞窟は江の島・岩屋の洞窟とつながっているとかいないとか!
大蛇らしきものが飛んでいくのを三浦半島だけでなく房総半島の人も目撃したという記録も!

あ、諸説あります、ええ。

ちなみに文献によると、この大蛇はもともと千葉県・印旛沼にいましたが、東京湾の主であったホラガイとバトルとなり、ホラガイに投げ飛ばされてできたのが猿島、というスゴい説も。
何とも武勇伝が多い大蛇であります。

伝説の一戦(想像図)

 

■ 台場をつくったら、あの男がやってきた!

江戸時代後期になると、異国船が次々にやって来たことから、江戸を守るために東京湾の守りを固める必要に迫られます。
そこで1847(弘化4)年、島内3カ所に台場が築かれ、15基の大砲が置かれます。
すると6年後の1853(嘉永6)年、ついにアメリカから4隻の黒船艦隊がやって来るのです!

幸いにも武力衝突は避けられましたが、アメリカ東インド艦隊司令長官、マシュー・ペリーの船は滞在中、猿島沖に停泊。
その時、猿島を「ペリーアイランド」と勝手に名付けたとか!

ペリー提督による命名の瞬間 (想像図)

ペリーが来たのもつかの間、1855(安政2)年、前年の南海トラフ大地震に続いて「安政江戸地震」が起こり、台場は壊滅的な被害を受けてしまいます。
そのため、幕府は猿島台場を放棄することになります。

 

■ 猿島、ついに要塞化スタート!

1877(明治10)年、横須賀港が海軍港に指定され、猿島は海軍省の管理下に。
この時、今も島に残っている「海軍港碑が築かれます。

現存する「海軍港碑」はなにげに築140年ほど! (猿島島内)

そして1881(明治14)年、海軍省から陸軍省へ移管され、陸軍工兵隊によって本格的な〝猿島砲台(要塞)〟がつくられていきました。

 

■ またもや〝アレ〟で大被害!

着々と防御施設がつくられていった猿島ですが、1923年(大正12)年9月1日11時58分、すべてをひっくり返すような出来事が起こります。

そう、関東大震災──。

相模湾から山梨南部を震源とするM(マグニチュード)7.9とも8以上とも言われる揺れが48秒間続き、M7程度の余震も6回連発。
これにより、またもや猿島砲台は甚大な被害を受けます。

すでにこの頃には戦争の形態も変わり、「そもそも砲台って、必要?」という時代になっていたこともあり、陸軍は1925(大正14)年に猿島を放棄。
再び海軍が、今度は横須賀港を守る〝防空砲台〟として新たに整備することになったのです。

1941(昭和16)年には高射砲陣地がつくられ、「8cm高角砲4門」「12.7cm連装高角砲2基4門」「防空指揮所」「探照灯」(サーチライト)などを次々と設置していきました。これらの跡は今でも残っています。
しかし・・・!
射程距離は高度約8000mだったので、それよりも高い10000mの高さを飛んで来るアメリカのB29爆撃機には、ほぼ当たらなかっとか・・・。
結局ほとんど実戦に参加することなく、終戦となります。

この場所に「12.7cm連装高角砲」がっ! (猿島島内)

 

■ 島の持ち主は・・・誰!?

終戦を迎えた1945(昭和20)年。
8月30日に連合軍が猿島に上陸するのを海岸で待っていたのは、竹に白布を括り付けた3名の兵士だったといいます。
そして40~50名のイギリス軍兵士が上陸し、武装解除となったのです。
島の一部は、機雷に反応しないように不必要な磁気を船体から除く「消磁ステーション」として米軍に接収されました(返還は1961年)。

正面奥の壁には、連合軍上陸時に警戒のため撃たれた機関銃の跡があるとか

戦争中は軍の持ち物だった猿島ですが、戦後は国のものに。
扱う官庁は・・・大蔵省(現財務省)。「管財局」というセクションが、管理をすることになりました。

そして、ついに民間人が島へ渡ることができるように。
1947(昭和22)年、とある会社が渡船を開始しました。
軍オンリーの島となってから60年あまり。ついに一般人が足を踏み入れたのですっ!
やがて1957(昭和32)年には海水浴場がオープンし、折からの海水浴ブームに乗ってたくさんの方が猿島へ向かいました。

この頃に猿島で海水浴を楽しんだ方も多いかと!

ところが、もろもろの事情により1993(平成5)年に航路は廃止され、再び島は立ち入り禁止となってしまったのです。

 

■ついに横須賀市のものに!

シーフレンドZero (猿島桟橋)

しかし、「島に行きたい!」「泳ぎたい!」「釣りたい!」という声が殺到。
そこで1995(平成7)年、横須賀市が国から管理委託を受け(その後無償譲与)、散策路などを整備。
東京湾に浮かぶ都市公園として、よみがえりました。
この時に運航を開始したのが、トライアングルのシーフレンド号。
今では「シーフレンドZero」「シーフレンド1」の2隻が、猿島航路の主力となって皆さまを島へお送りしています!

 

以上、8000年の歴史をざっくりと振り返ってみました。

しかーし!

猿島にはまだまだ謎&魅力がいっぱい。
「国史跡」と「日本遺産」に指定された無人島へ、〝発見〟のショートトリップに出かけてみませんか?